教員インタビュー

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准教授 神代 光朗
研究領域 : 経済学史、中・東欧、特にポーランドの社会・経済思想

社会現象の深部にまで、学問によって真実とは何かを追求してほしい。

西欧の基準だけで経済学を語ることに疑問。

学生時代からトータルに数えると、46年間、慶應義塾大学に通い続けたことになります。学部3年生のころまでは、プロの研究者になるなど想像もしていませんでしたが、まわりには勉強熱心な学生が多かったように思います。学費値上げ反対のストライキで2万人もの学生が集まったり、1月に実施される予定の試験が3月に延期されたり、大変な時代でしたが、私にとっては大きな経験であったことも事実です。そんな中で、卒論を書き、大学院に進み、マルクス経済学と経済学史の研究に取り組みました。

その後、ローザ・ルクセンブルグの学位論文、および『資本蓄積論』と民族問題をめぐる研究に携わるようになり、ポーランドへの留学も経験しました。ポーランドの民族問題と密接に関係するテーマだったからです。ワルシャワ大学で学んだのですが、「連帯運動」の時代でもあり、西欧だけの基準で経済学を語るのは一面的にしか過ぎないのだと痛感したものでした。その当時、下宿でお世話になったお宅の方やワルシャワ大学の先生達とは今も手紙のやりとりをしています。

歴史学としてのポーランドについて研究する人はいますが、経済学史、思想史の分野ではほとんどいません。まだまだこれからの学問です。そんな未知の学問に向き合うことができたことを、誇りにも思います。

学派が違っても学者同士、尊重しあう風土がある。

10年ほど前から、経済学史(16〜19世紀)についての講義を担当するようになったのですが、はじめは1400人近くの学生が受講者として殺到しました。うれしい誤算でしたが、時には怒鳴らないと講義にならないという事態には戸惑いました。ただ、中にはお年寄りが聴講生として講義を聴かれたり、他の大学からぜひ聴きたいといって来てくれた学生もいました。感謝するばかりです。

慶應義塾大学には、立派な図書館があり、貴重な文献も多い。その上、優れた先生方が数多くいました。私もさまざまな先生方に大きな影響を受けました。特に、慶應義塾大学の素晴らしいところは、たとえ学派が違っても、学者同士、尊重しあうという風土が根付いていたことです。派閥を作らず、かつては学問の自由を謳歌していたように思います。私自身も良き師に恵まれました。これからもそういう慶應義塾大学の良さを、新しい時代に即して、発揮していってもらいたい。同時に、世の中の人気大学ランキングなどに目を奪われるのではなく、地に足を着け、伝統で培った素晴らしさを見直して、学問の研究を花開かせてほしいと思います。学問の業績はもちろん、有能な知識人を数多く輩出したことも、慶應義塾大学の功績のひとつだと思います。OB会に出席すると、私などはまだ若輩者で、定年退職後も向学心を持った方々が数多くいます。

気品の源泉としての慶応義塾の伝統。いかに学生に伝えていくか。

現在は、「グローバル化」とともに私たちの時代とはものの考え方や文化現象など、時代のすう勢も大きく異なります。ITの時代、価値観や文化観も私たちの時代のそれに当てはめようとするのは無理がありましょう。しかし、礼節だけは重んじてもらいたい。それは気品の源泉でもあります。学生たちに礼節をいかに教えていくかは、今後も課題といえるかもしれません。

そして、学生たちには、学問への関心を常に持っていてほしい。社会現象のネガティブな面、ポジティブな面、現象の深部における真実とは何かを探求してほしい。そのためには、やはり勉強しなければならないのです。

私自身も経済学史を民族の問題の視点から研究を続け、いつか形にできればと考えています。ポーランドという国の特殊な社会経済思想史をどうとらえていくか。未解決な課題がまだまだあります。幸いこれからは時間もあります。これまでは資料の整理にも時間的に追いつかないこともありました。今後、丁寧に時間をかけて、取り組むことができたらと思っています。

(2009年12月17日取材)

※プロフィール・職位はインタビュー当時のものです。

プロフィール

1967年
慶應義塾大学経済学部卒
1969年
慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程経済学修士取得
1972年
慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了
1969年
慶應義塾大学経済学部助手
1978年
慶應義塾大学経済学部助教授(現准教授)
1979〜82年、94〜95年
ワルシャワ大学経済学部経済思想史専攻科に留学

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