教員インタビュー

トップページ > 教員インタビュー > 中山 幹夫

教授 中山 幹夫
研究領域 : ゲーム理論とその応用、ゲーム理論史

私と慶應義塾

私が初めて三田キャンパスを訪れたのは、大学3年生だった1969年3月、友人の弟の入試合格発表を見に来たときです。掲示板が今とは違う場所に設置されており、キャンパスは山の上にあるんだと思ったことを記憶しています。その次は、三田キャンパスで開催された理論・計量経済学会で初めて発表した1973年の秋です。西校舎の広い教室だったように思います。1977年秋の成蹊大学での学会では、長名先生が討論者でした。詳細は忘れましたが、後で2、3回往復書簡をやりとりしました。長名先生には1988年京大での学会でもコメントをしてもらった際に、論文中の数値の誤りをコンピュータで発見したと聞いて驚いたものです。1979年春の逗子渚ホテルでのコンファレンスでは初めて大山先生にお目にかかりました。また、この年の都立大での学会では丸山さんが討論者で、発表のときには福岡先生が最前列中央に着席されていて緊張しました。この学会で川又先生にも初めてお目にかかりました。川又先生には、1981年横国大での学会で、本題からはずれた討論者のコメントに窮していた私に「経済学上のコメント」をしていただき助けてもらいました。1983年秋、上智大学での学会では院生または助手だった中村現学部長の研究発表がありました。1987年の春だったように思いますが、東大の山上会館でのゲーム理論コンファレンスでは、やはり院生または助手だったグレーヴァさんが後ろの方からコメントしていました。確か、マクロの内容だったと思います。1988年春の米国ノースウエスタン大学での学会では、思いがけず日本人に遭遇しました。丸山さんと中村さんだったので後で寿司屋へ行ったことを覚えています。法政に赴任した頃、留学直前のグレーヴァさんに、遠く不便な多摩キャンパスまでセミナーに来てもらったことがあります。その1、2年後だったと思いますが、川又先生からTCERの研究プロジェクトに推薦していただき、中村さんを始めとして5、6人の研究者で実行しました。1994年夏、シカゴでのゲーム理論コンファレンスでも思いがけず1人の日本人から声をかけられました。白井さんでした。後で一緒に食事したことを覚えています。

慶應義塾に赴任してまず思ったことは、セミナーが多いことです。私は、米国NUでの経験を除けば、富山、法政(多摩)とそのような環境にはいなかったので、せっせと出席したものです。文学部のロジックのセミナーにも出たことがあります。ゼミについては、最初の5、6年は10人未満の少人数でしたが、その中から経済学研究科で3人、矢上と東工大で各々1人、博士学位取得者となりました。ゼミから研究者が育つということは、いうまでもなく「大学教員冥利」に尽きるもので、前任校の法政では1人でしたが、慶應義塾でそれが実現したと言うことができます。ただ、ここ数年はゼミ生の人数は増加したものの、理論分野で研究者を目指す学生は逆に減っているように思います。毎年、よくできるゼミ生は必ずいるのですが、経済学研究科に進学してくれないのは残念です。ある年など、2年連続でトップのゼミ生が東大の公共政策へ進学しました。1人はメカニズム・デザイン、もう1人はマッチング理論についての卒論を書きましたがいずれも修士論文レベルのものでした。理論分野では競争が激しく研究者への道を敬遠したくなるのはわかりますが、このように十分やっていける素質の持ち主は少なくないので、ぜひ頑張ってほしいと思います。慶應義塾大学がResearch Universityとして今後もますます発展するためには必要なことですし、また、そうであることを期待しています。

(2012年11月取材)

※プロフィール・職位は取材当時のものです。

プロフィール

1970年
東京工業大学工学部社会工学科卒業
1972年
東京工業大学修士課程修了
1973年
東京工業大学助手
1975〜88年
富山大学経済学部講師、助教授、教授
1983年
理学博士(東京工業大学)
1987〜88年
ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院訪問研究員
1989〜96年
法政大学経済学部教授
1997年
慶應義塾大学経済学部教授

ページトップに戻る