Ministry of Finance

月刊誌『ファイナンス』(大蔵財務協会刊)2004年7月号2004年8月号2004年9月号にわたり、全3回で連載致しました!

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2002年8月8日

 私は、8月8日から2004年3月31日まで、財務省 財務総合政策研究所主任研究官として移籍致しました。その間、大学では、慶應義塾大学経済学部客員助教授となります。2004年4月1日には、慶應義塾大学経済学部助教授に復職する予定です。この異動は、公務員の民間人登用の一環で、一般職の任期付職員の採用及び給与の特例に関する法律に基づき、任期付き国家公務員として着任致しました。

 私は、これまで大学で、経済学の論理で仕事をしてきました。この日から私が仕事をするところには、「霞が関の論理」があると巷間で言われています。私は、経済学の論理の優れた部分を信じて仕事をしてきましたし、これからも仕事をしてゆくつもりですから、経済学の論理と相容れない理屈を安直に受け入れるつもりはありません。時には、「霞が関の論理」との相違に直面することになるでしょう。しかし、その相違は解消可能だと考えています。どこまで可能かは今の段階では未知数ですが。

 私は、昨年夏からのアメリカ滞在中、政府・議会に対する一流の経済学者の接し方を垣間見ました。特に、私と同じ財政・公共経済学の分野で研究する経済学者は、自らの経済学の論理に自信を持ち、自らの研究で導かれた主張や提言が行政当局や議会でよりよく受け入れられるよう工夫していました。「工夫」というのは、経済学の純粋な理論から導かれた結論でも、政治的に実行不可能なものならそれを強引に主張しない節度や、難しい理論から導かれた結論でも、その含意が重要ならできるだけわかりやすく説明しようとする努力などです。そこには、経済学の論理と矛盾するような曲解はほとんどありません。しかも、そうした研究報告や議論が、政治家や官僚と一緒の場では当然としても、政治家や官僚がおらず学者だけの研究会の場でさえ行われていました。それだけ政策志向の強い学者が多いのだと思います。

 私がアメリカでよく受けた質問に、「日本政府が、経済学の論理で正しいと思われる政策を受け入れないのはなぜか。その理由を経済学の論理で説明してほしい。」というものがありました。アメリカの経済学者には、第一に経済学の論理で正しいと思われる政策を実行してほしいと望むものの、それが単純には実行されないとすれば、第二に実行されない理由(時として、「霞が関の論理」)を経済学の論理で解明したい、と考える傾向があるようです。経済学の論理で仕事をしてきた私は、この質問に(どこまでうまく答えられたかは別として)答えることを通じて、「霞が関の論理」にも経済学の論理で説明できる部分が多くあることに気づきました。ちなみに、私は、経済学の論理で森羅万象の全てを説明し尽くせると言いたい訳ではありません。私は、経済学でしか博士号をとっていない(法学や物理学などは素人の)人間なので、経済学の論理でしか職業人として意見を述べる資格がない、と考えているだけです。

 さらに、アメリカの経済学界とワシントン(政府・議会)との間では、活発に人事交流があるのも大きな特徴です。「ラホーヤの浜辺から」でも書きましたが、学者が政府の仕事に貢献することは国民全体に貢献することだとした高い評価を受けています。政府は国民のものであって、官僚や政治家のものではないという民主主義の正しい認識が根底にあります。財務省に移籍することが決まって、予定より早く帰国することになったことを、滞在先のカリフォルニア大学サンディエゴ校の方々に伝えたとき、滞在期間変更の煩雑な事務手続きで嫌な顔をされるかと思いきや、皆"Congratulations!"と歓迎してくれました。その意味は、学者がワシントンに政治的任命(political appointtee)で抜擢されたのと同一視したからだということがわかりました(私の場合は、そんな大げさなものでは決してなく、日本でこれまでにもあった民間企業の方が官庁に出向するのと同じような意味でしかないと思いますが)。アメリカでは、学者が官庁に行くことにそれほど大きな意義があると思われていることを、私は実感しました。

 私は、アメリカでのこうした経験から、財務省の仕事を引き受けたいと考えました。もちろん、私の大学での同僚の先生方には、私が不在にすることで多大なご迷惑をおかけすることがとても心苦しく、先生方のご理解なしではできません。幸いにも、私が財務省に出向することを、寛大に認めて下さったことに感謝しております。

 私が財務省に在籍中、経済学の論理で考えたこと、経済学の論理と霞が関の論理との相違、その相違はどこまで解消可能かなどについて、随時このページに書いていきたいと考えています。


2002年8月12日

 私自身は、1999年3月に東京大学 社会科学研究所助手(文部教官)を退官して以来、3年4ヶ月ぶりに「国家公務員」となりました。同じ国家公務員といえども、今回私が着任したのは、財務事務官で、国立大学の教官とは違う環境です。国立大学では許されても、財務省では認められない行為があったり、私が国家公務員でなかった間に国家公務員倫理法が施行されて、国家公務員として許される行為も厳格に規定されたりして、私は財務事務官の1人としてどのように振舞えばよいか注意を払っている状態です。

 国家公務員倫理審査会のウェブサイトには、国家公務員の行為について、面白い記述があります。ここには、許認可を与える側と与えられる側などの人間関係である「利害関係者」に関するものが主に書かれています。国家公務員が「利害関係者」と接する際に、どのように振舞えばよいかがこと細かく書かれています。しかし、私はそうした行政権限を与えられた身分ではなく、「利害関係者」はいません。それでいて、国家公務員倫理審査会のウェブサイトには、利害関係者でない方と日常接する場合には、「通常一般の社交の程度を超えない」などと抽象的にしか書かれていません。さらに、私のような民間人を財務事務官として雇った前例がないので、前例もないとのことです。

 経済学には、不確実性とリスクについて、独特の考え方があります。将来直面する状況が不確かな場合、起こりうる状況とその起こる確率を考えて適切に振舞うのがよい、と考えます。例えば上記の場合、私は利害関係者でない方と飲食を共にした場合、私がしてはいけない行為は何か、してもよいが事後的に正しく報告しなければならない行為は何か、慣例では必ずしも報告しなくてもよいことになっている行為は何か、慣例ではそうといえども報告を怠ったと咎められた場合どのような懲罰があるか、そのように咎められる可能性はどのぐらいの確率で起こりうるか、といったことが、私の意思決定に重要な影響を与えます。

 霞が関では、前例が重んじられる傾向があるという有名な事実があります。前例があれば、前例に従えば無難です。ところが、私はこれまで大学の人間でしたから、霞が関での前例を詳しく知りません。そこで、事務方に前例を尋ねて、私の意思決定の参考にすることにしました。でも、前述のように、私のような前例がないので、当然、尋ねても「前例がない」という答えが返ってきました。しかも、私は経済学の論理で考えて、将来直面する状況について、起こる確率がわずかであってももし起こってしまったら多大な損失を私が蒙ってしまうことを恐れるため、こんなことは通常ありえそうにないと思われるようなことまで、ついつい事務方に「仮定の質問」をしてしまいます。幸い、そんな私に根気よく付き合って下さったので、大変ありがたかったです(ただ、現時点ではまだその回答はありませんが…)。

 ちなみに、私がしばしば思うのは、日本の法律の多くは、日常の経済活動で、起こる確率がわずかであってももし起こってしまったらどうするか、ということについて、条文にきちんと書き込んでいないように思います。上記の意味では、国家公務員倫理法もそうです。一般職の任期付職員の採用及び給与の特例に関する法律があって、私のような民間人を国家公務員の一般職で雇用することができるようになっているのに、私のような人間も国家公務員倫理法の適用を受けるにも関わらず、私のような人間が振舞う行為について、どのようなことが許されるのかは、きちんと書き込まれていません。「私のような人間を雇うことを想定していない」というのは、言い訳にはなりません。私のような人間を雇うことが、一般職の任期付職員の採用及び給与の特例に関する法律で許されているのですから。

 私の話は単なる些細な一例に過ぎません。もっと重大な問題が、他の法律にもまだまだ残されていて、経済学の用語でいえば、日本の法律はかなり「不完備」な状態になっていると考えます。私は、国家公務員として日本の法律をきちんと遵守する所存ですが、「不完備」な部分はきちんとして頂きたいと考えます(私には立法の権限がありませんから、他人事のような言い方になってしまいますが)。「不完備」な状態を改めるのは、さほど難しいものではありません。単に、日常の活動の中で、起こる確率がわずかであってももし起こってしまったらどうするか、をきちんと頭を働かせて考えて、条文に書き込めばよいだけです。起こる確率が低いから考えるのをやめようとしてはならないのです。具体的にいえば、天気予報で降水確率が10%といわれて、雨が降ったらどうするかを少しは考えるのと同じことです。10%だったら、傘は荷物になるから持っていかないことにしようという判断も1つの立派な判断ですし、10%でも雨が降ったときにぬれたら嫌だから傘を持っていこうというのも1つの立派な判断です。しかし、降水確率が10%と聞いたのに雨が降ったらどうするかを全く考えないのは、怠慢以外の何ものでもありません。この話なら、困るのは全く考えなかった人だけが困る話なので大したことはないかもしれませんが、日本の法律できちんと考えずに何も書いていなかったら、それは多くの日本国民が困る話になります。そういう意味で、日本の法律は、もっと完備なものにしていく努力が必要だと考えます。


2002年8月22日

 財務省 財務総合政策研究所(財務総研)に勤務して2週間が経ちました。見るもの聴くもの色々なことが新鮮で、刺激的な毎日を過ごしています。その中で、大学勤務時と大きく異なることが2つあります。それは、定時出勤と「部下」がいることです。

 私の勤務時間は9時30分から17時45分です。もちろん、私の仕事柄、17時45分になったからといって突然仕事をやめることはなく、ほぼ毎日17時45分を超えて残業しています。しかし、私の俸給が規定されている一般職の任期付職員の採用及び給与の特例に関する法律により、私は残業しても勤務時間外の残業手当は1銭も出ません。それは大したことではありませんが、大学勤務時と大きく異なるのは、毎日9時30分までに定時出勤しなければならないことです。大学では、在宅勤務可の完全フレックスタイム制(と言えば聞こえがよいが、要するに「大学の自治」という美名で偽装したルーズな勤務管理というだけのことですが…)でしたから、定時出勤に慣れるのは結構大変でした。大多数のサラリーマン、OLにとっては「何をいまさら」ということかもしれません。朝の通勤電車が1本乗り遅れるか否かがこれほど重大事だとは…

 もう1つの大きな違いは、「部下」がいることです。財務総研には、民間金融機関や民間企業などから出向している研究員がいます。研究員は、主任研究官と共同して研究に取り組みます。主任研究官は、財務省では課長補佐クラスで、研究員を「部下」として所定の研究の進行を管理します。学界で共同研究することは決して珍しいことではありませんが、基本的に研究上は対等なパートナーとして研究を進めます。私もこれまでいくつも共同研究をしてきましたが、上司・部下という関係ではなく、対等な研究者として学術論文を執筆してきました。だから、自分の分担となった範囲の研究に関する下準備(文献・データの収集やコピー取りなど)は、当然として各自が行うものでした。研究所では、経済学に関する知識の蓄積の差もあるので、学界での共同研究のような役割分担は難しいといえます。そんなこともあって、経済理論に基づいた基礎的分析や研究進捗の管理は私の分担とし、文献・データの収集やコピー取り、そして計量分析の具体的な作業などは「部下」の分担ということにするのが互いにとって好都合ということになりました。さらに、研究所には、直属ではありませんが、研究のロジスティックス(霞が関では、しばしば「ロジ」と呼ばれています)担当の「部下」もいます。

 でも、私は「部下」を持ったことが1度もないので、そのマネージメントが全然できていません。財務省プロパーの官僚は、典型的な官僚組織の中で、自ずと上司・部下関係を身につけてきたようで、ごく自然に部下を使いこなしています。「○○君、この書類をよろしく頼むよ」と部下を呼んで書類処理を依頼する姿を、私はなかなか真似ができません。大学では、私に関する「ロジ」も多くが教員自身で行うのが普通です。なので、事務手続きに必要な書類も私自身で整えるものだと思って、財務総研でもその作業を私がしようとしたところ、「それは私がしますから」と「部下」に止められてしました。

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2002年9月12日

 この日は、朝から内閣府で税制改革に関する国際フォーラムが開かれました。このフォーラムの趣旨は、日本の税制改革について、日米の経済学者が1980年代でのアメリカの経験などを踏まえつつ議論するものです。私は、Auerbachカリフォルニア大学バークレー校教授の報告に対する討論者として出席しました。Auerbach教授は、1980〜90年代のアメリカの税制改革の長短を考察した報告を行いました。私は、アメリカの税制改革を日本に援用する際に必要な論点について質問しました。その詳細については、議事要旨をご覧下さい。

 このフォーラム最後には、Hubbardアメリカ大統領経済諮問委員会委員長(当時)も列席して、ラウンドテーブルが開かれました。Hubbard委員長が訪れるのを待ち受けるように、それまで穏やかだった議場に、マスメディアのカメラマンが多数入ってきて、急に慌しくなりました。かと思ったら、5分ほどで瞬く間に引き上げていきました。

 このラウンドテーブルの冒頭でHubbard委員長は基調講演をしました。さらに、跡田・慶應義塾大学教授と伊藤隆敏・東京大学教授も基調演説をしました。基調講演を総合すれば、日本で税制改革を議論するにあたり財政赤字の持続可能性を考慮する必要性が指摘されました。財政赤字をこれ以上無節操に増やせないという制約を考えれば、金融政策との連携が重要となります。そうした議論の流れから、いつしか「税制改革に関する国際フォーラム」だったはずのフォーラムは日本の金融政策に関する議論で大いに盛り上がりました。端的にいえば、Kotlikoffボストン大学教授やKashyapシカゴ大学教授らアメリカの経済学者は、日銀の量的緩和政策は生ぬるい、もっと積極的に通貨を供給すべきだという議論です。日本のある財政学者が「日本のデフレは中国などからの安い輸入品が要因で、構造改革に関わる問題だ。」と言及したとき、浜田・内閣府経済社会総合研究所所長(当時)は「それは完全に間違っている。デフレは貨幣的な現象だ。」との旨、強い語気で反論しました。この点が象徴しているように、日本の学者の一部には、アメリカではほとんど受け入れられないデフレ観を抱いているようです。特に、日本の財政学者の一部には、日銀官僚の一部が誤った議論をしているのに同調するかのように、デフレが貨幣的現象でないかのような誤解をしています。日本のデフレは、中国からの安い輸入品が要因ではなく、通貨供給が相対的に不足して通貨価値が上昇していることによるものです。

 日本の財政学者の多くは、デフレ論争について自らの主張にコミットをしたがらない傾向があるように、私は思います。確かに、私も含めて財政の専門家の金融政策に関する理解は、金融論の専門家に比べて劣っています。しかし、自らの専門である財政政策について、金融政策との関連で、どう対応すべきかを言及しなければならない状況にあります。今のままでは、財政政策について財政の専門家よりかは疎い金融論の専門家(日銀官僚も含む)に、「金融政策はデフレ対策にあまり効かないから、財政・税制の構造改革でもデフレ対策をせよ」という誤った論調に押し切られてしまいそうです。それではいけません。財政赤字の累増が抜き差しならない状況にあり、これ以上無節操な財政政策は許されません。財政政策について相対的に疎い金融論の専門家(日銀官僚も含む)に、デフレ政策のために財政政策を発動せよと言われっぱなしにすることだけは、財政学者は断固として避けなければなりません。

 さすがに、議論の中心が金融政策にシフトしてしまったので、ラウンドテーブルのコーディネーターの井堀・東京大学教授が、「会議のタイトルは税制改革についてであるので、議論を本題に戻したい。」と制し、一同が大笑いとなりました。ラウンドテーブルの詳細については、議事要旨をご覧下さい。ただし、この要旨では、金融政策に関する部分はかなり薄められています。


2002年9月13日

 この日は、アジア開発銀行研究所でNBER(全米経済研究所)Japan Project Meetingが開かれました。私も、前日の内閣府で税制改革に関する国際フォーラムに参加したアメリカの経済学者の多くとともに出席しました。前日は不完全燃焼だった日本の金融政策の議論は、延長戦さながらに、このコンファレンスで活発に議論されました。

 このコンファレンスの午後1番に、黒田・財務省財務官が講演をしました。財務省からは、私が属する財務総合政策研究所(財務総研)の岩下所長(前・国際局次長)も黒田財務官とともに出席されました。この講演では、デフレ対策の一環として積極的な金融緩和、さらには円安容認ともとれる内容について言及しました。出席した日米の学者には高評だったように見受けられました。この講演を聴いていた外資系報道機関の記者が、その内容をニュースとして流したようで、講演後に為替相場は円安に動きました。このコンファレンスは全て英語で行われているとはいえども、欧米の報道機関や金融機関のエコノミストも数名出席していました。しかし、日本の報道機関からの出席者は私が知る限り皆無でした。日本の報道機関の記者は、医学系の学会や考古学会などには出席してその内容を当日のニュースで報道する割には、経済学の学会に出席する記者は少なく、さらにはその内容を当日のニュースで報道するなどまずありえません。ある学者のねつ造が見破れない考古学会に出席して内容をそのままニュースに流すことが許されるなら、国民の関心事である金融政策について議論している経済学の学会に出てその内容をニュースで報道する努力ぐらい容易なことでしょう。日本の報道機関にとって、ねつ造を決してしない経済学者は考古学者よりもニュースの価値がないのでしょうか。

 私の個人的な印象ですが、財務省内のデフレ観は、必ずしも一枚岩ではないように思います。公式見解ではない形で話を聴くことができる場で、私がこれまでに聴いた話を総合すれば、次のような印象を持っています。デフレは貨幣的現象で、金融政策によってデフレを止めるべきであるとはっきり認識しているのは、国際局と財務総合政策研究所でしょう。黒田財務官の講演もその一端がうかがえます。しかし、主計局や主税局はデフレ対策や金融政策のあり方について、(かなり戦略的に)立場をコミットしないようにしているように見受けられます。ただ、その寡黙さの理由は、ひょっとすると、デフレの中でも公務員の名目給与は高止まりしていて実質給与はむしろ増加していて、物価が下落して売上高が減るなどのデフレの悪影響に直面しない仕事をしているので、デフレの害悪を目の当たりにしていないためではないかとさえ感じられなくはありません。私は、デフレの害悪を目の当たりにしていない仕事をしています。また、借家暮らしなのでまだ住宅ローンがないので、デフレは私個人にとってはむしろ好都合です。しかし、経済理論に殉じる私からすれば、こうした個人的な感覚で政策論議をするのは決して許されません。たとえ、デフレの害悪を目の当たりにしていなくても、デフレで得をしていても、経済学の論理でデフレを放置することが日本経済にとって望ましくないと認められるなら、個人的利害を捨ててその論理を貫かなければなりません。

 百戦錬磨の財務官僚は、日銀にさらなる量的緩和を積極的に行うべきだと思っていても、露骨に言おうとはしないでしょう。特に、これまでの大蔵省時代の日銀との関係がこの態度の遠因になっているように見受けられます。1997年度までの旧日本銀行法では、大蔵大臣に日本銀行総裁の解任権が与えられ、日銀は大蔵省に従属していた、と見られています。報道機関は、この過去を、日銀法が改正された今でも引きずっていて、政府・財務省が日銀に政治的圧力を掛けようものなら、すぐ「財務省は日銀を服従させようとしている」と報道するでしょう。日銀も、この構図を敢えて利用することで、自らの立場を強化しているかのようです。この構図で捉えられては、財務官僚は容易に金融政策について強い発言ができないのだと思います。

 しかし、現在の改正日銀法下では、もうそんな関係ではありません。私は、政府と日銀の関係は、中央銀行の独立性の経済理論で展開されているように、プリンシパル・エージェント理論が示唆する関係であるべきだと考えています。つまり、政府が中央銀行人事と政策目標を設定するが、政策手段については一切介入しない。そして中央銀行は、目標達成のために政策手段を政府から独立して操作できる。最後に、中央銀行幹部は、政策目標の達成について結果責任を負う、というものです。今では、日銀は政策目標を自ら設定しようとし、政府が政策手段に介入しようとする誤った関係になっています。それを正す必要があります。政府は日銀の政策手段について介入すべきではありませんが、日銀を金融政策の目標についてとやかく言う立場にすべきではありません。民主主義国家である以上、政府がプリンシパルで、中央銀行がエージェントであるのはもはや当然です。日銀は、民主主義国家では単なるエージェントであるべきです。もちろん、官僚も有権者・政治家のエージェントであるべきだと考えています。


2002年9月28日

 私は、慶應義塾大学でこの秋学期に、公共選択論(2コマ)と演習(2コマ)を持つことになりました。そもそも、財務省に移籍する人事が決まる前に、これらの講義を担当することが決まっていました。その後、急遽財務省への移籍が決まったものの、講義を担当することを条件としたので、私が責任を持って担当することにしたものです。

 私は、平日勤務時間中は国家公務員として国民の皆様のために精勤しなければならない身分なので、講義を担当することはできません。特に、慶應義塾大学は夜間がないので、平日の勤務時間終了後に講義を持つこともできません。そんな訳で、私は4コマ(90分×4)の講義を土曜日に担当することになったのです。

 この日から秋学期の講義が始まるのですが、土曜日、しかも1限目朝9時から登校してくる奇特な学生はそうはいまい、と私は思っていました。ところが、4月の受講登録時に、公共選択論は約730名、演習は約60名という、目を疑う数の受講登録者がいました。私は、この多くが「保険」として登録したと思いました。つまり、土曜日には登録できる講義がほとんどなく、私の講義が格好の対象になって、もし平日の講義だけでは首尾よく単位が取れなかったときの「保険」になるから登録したのではないかと思いました。

 いよいよ土曜日1限目からの公共選択論の講義を始める時間が迫ってきました。私は、事務方が割り当てた定員100名の教室に赴きました。私は、学生が50名も来ていれば御の字だと踏んでいました。なにせ、学生にとってのエンターテイメントが豊富な今日。デートや買い物など色々と楽しめる土曜日の朝っぱらから、何も好き好んで私の講義なぞ聴きに来ることはないでしょう。ところが、教室に着いて驚きました。講義開始の9時時点で、既にほぼ定員に近い数の学生が着席していました。その後も、続々と学生がやってきて、少し話し始めた時点で、もはやこの教室では講義が続行できない状態になりました。恐らく150名ほど来ていたのではないかと思います。私は思わず冗談で言いました、「私の講義を聴きに来るなんて、皆さんは間違っている。世の中には他にもっと楽しい娯楽がたくさんあるはずだ。」嬉しい悲鳴と言ったところです。結局、翌週からもっと大きな教室に変更することになりました。

 土曜日午後の3限目からの演習は、定員20名の演習用の教室が割り当てられていました。ところが、講義開始の13時時点で出席していた学生はもう定員オーバーでした。むむっ、恐るべし。この日の演習でさえ続行不可能な状態で、別の大きな教室に移りました。こうして、私の土曜日の講義が始まったのでした。この週から、平日は財務省、土曜日は大学で、週休1日の日々が始まります。果たして、バテずに最後まで全うできるのやら…

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2002年10月6日

 私は、日本政治学会から依頼を受けて、研究報告をするべく松山市の愛媛大学に赴きました。日本政治学会では、学会大会での報告はプログラム委員会の指名でしかできないと聞いていましたので、光栄なことと二つ返事でお引き受けしました(私は、日本政治学会の会員ではありません)。日本経済学会では、学会大会の研究報告は立候補制で、申し出ればほぼ確実に報告ができます。私は日本経済学会でプログラム委員をした経験があるので知っていますが、プログラム委員に当時は200名(現在では300人ほどと思われる)もの報告の申し出を1つ1つ審査する余裕はとてもありません(今後は改善する余地があるとは思います)。

 私は5日土曜日に大学での講義をきちんと終えて、その夜には飛行機で松山入りしました。7日月曜日はまた財務省に出勤です。この週はもちろん、学会が集中する10月は週休ゼロです。13、14日の日本経済学会(於:広島大学)は討論者として出席し、26、27日の日本財政学会(於:東京大学)は報告者として出席します。体育の日の連休も返上です。

 私の報告題目は「腐敗防止の政治経済学−制度を憎んで人を憎まず」です。経済学の論理で政治腐敗の防止を考察した論文を報告しました。政治腐敗、特に賄賂に関して、その原因や防止する方策について、合理的選択理論的、ないしは経済学的に考察しました。内容を要約すると、次のようになります。

 通常、賄賂は、職務権限の行使に伴う対価として受け払いされます。ただ、現行法上では、賄賂は職務権限と直接的に関連付けられた所得移転に限定されています。しかし、実際の経済取引では、直接的に関連付けない形で賄賂と同様の所得移転を行うことが可能であり、それは処罰の対象にはなっていません。さらに、現行法上の定義での賄賂を根絶できたとしても、職務権限の行使に伴う社会的損失(超過負担)は根絶できません。

 こうした問題点に対して、私の報告では次のような経済学的見解を示しました。政治腐敗の経済的現象を防止する意味で、政治腐敗を防止するべく懲罰を厳格化するには、処罰の対象と方法をどうするかが重要です。まず処罰の対象については、職務権限の行使によって生み出されるレント(本来的には超過負担だが、これが顕在化しないための代理として)を温存したり、新たに生み出したりする行為に対して、レントの発生を基準に処罰の対象とするのが望ましいと考えられます。特に、職務権限は行政当局が独占的に行使できるため、レントが解消されるメカニズム(価格支配力がない当事者間の競争的環境で裁定が行われるメカニズム)が内在しておらず、処罰の厳格化によるレント解消の動機付けが必要です。

 そして、処罰の方法は、贈収賄が犯罪として処罰されたときに被る経済的損失を大きくすれば、あるいは、贈収賄が犯罪として発覚する確率を高めれば、贈収賄の誘因がなくなるが、犯罪摘発の費用も考慮に入れる必要があります。贈収賄の事実を摘発するのに費用がかかり、その費用をかければかけるほど、贈収賄が犯罪として発覚する確率が高まる状態ならば、適切に費用をかけて発覚する確率を高めるものの、過度に費用がかからない程度の発覚確率にとどめるのが望ましいと言えます。

 日本の政治学界の一部には、経済学の論理(政治学界では「合理的選択論」に近い論理)に対する強い嫌悪感があることを、私は十分に承知していました。要するに、政治過程のプレイヤーは、経済学の論理が想定するほど合理的ではない、だから経済学の論理では政治現象を説明できない、というものです。「経済学帝国主義」とも呼ばれる、他の学問領域への経済学の論理の援用の1つの現象と受け止められているのでしょう。しかし、経済学者は現在完成されている経済学の論理で森羅万象全てを説明できるとは考えていません。その意味では、「経済学帝国主義」は被害妄想ともいえるでしょう。

 こと政治腐敗の防止について言えば、道徳的に説得して政治腐敗を止めようと言って耳を貸す政治家がいれば、何も経済学の論理を持ち出すまでもないでしょう。しかし、現実にはそうではありません。道徳的な説得では政治腐敗を防止できません。特に、贈収賄については、利にさとい政治過程のプレイヤーがいるからこそ、道徳的に説得してもあまり効果がないのです。そこで、経済学の論理の出番ということになります。利にさといプレイヤーには、利害打算で政治腐敗を止めた方が得だという制度を構築し、その制度の下で政治活動をさせれば、自ずと利にさとい人物でも政治腐敗を止めようとする、と言うわけです。その意味で、経済学の論理は役に立つと私は考えています。

 学会大会で同じセッションで報告され、現在外務省に在籍されている政治学者の方とお話をしました。境遇としては、これまで学界で育ち大学に勤めてきて最近霞が関に籍を置くことになった点で、私と同じ立場の方です。そこで、面白い違いを発見しました。私が「慣れない役人生活は大変でしょう。」と同情申し上げたら、「特に守秘義務は大変ですよね。」という返事が返ってきました。当然、私にも守秘義務はあります。しかし、「大変」と言うほどではありません。なるほど、外務省は(財務省に比べて)守秘義務が大変なんだと思いました。私が同じ質問に返事をするとすれば、「特に定時出勤が大変ですね。」と答えていたでしょう。

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2002年11月8日

 私は霞が関で任期付き国家公務員として勤務することになって早や3ヶ月が経ちました。私は、経済学の論理と霞が関の論理は矛盾するものではないと、依然信じていますが、時として主張が食い違うこともあります(それは霞が関に限らず、大学の中でもあることですが)。そこで、日本の大学や学界の中では直面したことのない環境に直面したのです。それは、頭のよい官僚の自論(というより原局の主張)の展開の速さです。この8月まで滞在したアメリカの経済学界ではよく直面しましたが、日本ではあまりありません。経済学の論理で物事を考える私にとっては、納得できない主張(おそらく法学の論理に裏打ちされているものと思われる)ならば、毅然として反論しようとします。しかし、頭のよい官僚から繰り出される理路整然とした主張にはスピードがあります。スピードにはスピードで対抗しなければなりません。

 学問の世界では、論理の正しさはスピード勝負ではありません。より精緻な学術研究を時間をかけて行えばよいのです。そうした世界で私は生きてきましたが、学界の外では違います。頭のよい官僚のスピーディーな主張の展開に、私は通常の10倍のスピードで頭を回転させてきちんと反論しました。疲れたり風邪を引いたりしたコンディションでは、うまく反論できたかどうか。年をとればなおさらです。

 そういう経験をしたとき、審議会などに出ている学者の中で、これまでの持論を安易に曲げて霞が関の論理に従う方がいることについて、1つの原因が見えた気がしました。きっと、頭のよい官僚のスピーディーな主張の展開に、スピーディーに反論できなかったのでしょう。ジャーナリストもおそらく同様だと思います。頭のよい官僚とうまく付き合うには、頭の回転を速くして持論を展開できるスピードが必要です。さもなくば、官僚の主張に屈し持論が通らないか、持論を撤回させられることになります。「霞が関の論理」と揶揄する前に、理路整然とスピーディーに主張できる能力を磨く努力をしなければならないと思います。

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2002年12月20日

 このところ、2003年3月に任期切れを迎える日銀総裁の後任人事の話題が、内外の新聞で盛んに取り上げられています。16日夜に小泉首相が、山崎・自民党幹事長らと首相公邸で会談した際にも、次期日銀総裁人事について「デフレをしっかりと抑えてくれる熱心な人を選びたい」と表明した、と伝えられています。財務省OBにもその候補者がいるだけに、省内でも無関心であろうはずはありません。経済学者にも候補者がいるので、経済学者仲間の忘年会の場でも話題になっています。官僚も学者も、人事話好きが多いですね。ただ、人事話は秘匿が第一です!

 私は、以前(2002年9月13日)にも書きましたが、政府と日銀の関係は、政府が中央銀行人事と政策目標を設定するが、政策手段については一切介入せず、そして日銀は目標達成のために政策手段を政府から独立して操作できるが政策目標の達成について結果責任を負う、という関係であるべきだと考えています。しかし残念ながら、私が省内にいてわかってきたのは、現実はそう簡単ではないようだということです。そのネックは、「結果責任」です。

 日銀が結果責任を負うこと自体には、さほど政治的障害はないように思われます。しかし、「結果責任」論が日銀だけにとどまるはずはありません。財務省を始めとする各省庁とて目標を与党・政治家に設定され、その結果責任を負うという議論は、当然正論としてありえます。「結果責任」論が各省庁の官僚にまで及ぶことは、政府高官にとってはどうも気に入らないようです。

 だからといって、このプリンシパル・エージェント関係の導入をあきらめるべきではありません。日銀に対してだけでなく、官僚に対しても、国民・有権者が結果責任論を強く求めてこそ、よりよい政策結果が享受できるのです。次期日銀総裁は、このプリンシパル・エージェント関係の導入を受け入れられる人を選ぶべきだと思います。その具体策として、インフレ・ターゲティングの導入は重要だと考えます。これが受け入れられれば、国民の総意としてデフレを止める政策目標を日銀に課すことができ、デフレが止めることについての結果責任を日銀が負うことで、よりよくデフレを止めることができることになるはずです。


2002年12月24日

 この日は、財務省幹部の人事異動が発表になりました。2003年1月14日発令の異動にしてはやや早いのですが、事務次官、財務官を始めとして異動することになりました。私の席にも異動の情報が届きました。1月人事の噂は少し前から耳にしていました。特に、私の周りでは、財務総研幹部の異動があるか否かに関心が集まっていました。インターネット上では毎日新聞の記事が最も早く出されていたように思われます。

 突然の発表で、本人も驚いておられましたが、私の財務省移籍で大変お世話になった財務総研の森信次長が、東京税関長に栄転されることになりました。現主計局長が次期事務次官になり、主計局長には現官房長が就き、官房長には現総括審議官が就き、総括審議官には現東京税関長が就き、その東京税関長に森信次長が就いて、財務総研次長は所長が兼務することになりました。玉突きの異動はここで止まっています。幹部の異動だけにとどめるために大幅な異動はせず、在京の人で異動を終えることのようです。詳細は、毎日新聞の人事記事にあります。


2002年12月26日

 この日の勤務時間終了後、研究所の職員が集まって年末の乾杯が行われました。昔は御用納めの日に行われていたそうですが、今では勤務時間中に乾杯(もちろん、お酒が出ます)をするのはいかがなものかということで、御用納め前日の勤務時間終了後に行われました。所長の慰労の挨拶、次長の乾杯の音頭で始まり、ちょっとした慰労会といった感じでした。

 こうした乾杯は、他の部局では課単位で小ぢんまり行われることが多いそうで、研究所全体での乾杯は規模が大きい部類に入るそうです。私も、この機会に研究所で日ごろからお世話になった方々にお礼を申し上げました。大学でも、事務方の職員の方々には日ごろからお世話になっているのですが、教授と職員が一緒に慰労会や忘年会などをするケースはほとんどないので、なかなかお礼を申し上げる機会がありません。そういう意味では、こうした会合は仕事中には言えないお礼ができるよい機会として意義があるように思いました。


2002年12月27日

 とうとう御用納めの日を迎えました。といっても、特にイベントがあるわけでもなく、いつもより出勤者が少ないところがいつもと違う程度の日でした。私はこれまでずっと大学に勤めていて、「御用納め」を経験したことはなかったので、「御用納め」とはいかなるものかと期待していたのですが、取り立てて変わったことがなかったので拍子抜けしました。でも、銀行から出向している研究員の話によると、銀行で27日が「御用納め」だというと怒られるそうで、銀行の「仕事納め」は30日です(お疲れ様です)。

 省内も至って静かでした。話によると、以前は来年度予算案の復活折衝や政府予算案の閣議決定が暮れも押し迫ってから行われていて、御用納めの日でも慌しかったそうです。今年は、22、23日の連休中に復活折衝が行われ、24日には予算案が閣議決定されたので、すでに一段落していました。でも、私は依然として慌しい状態です。この年末は、妙に文書作成の締め切りが集中していて、いつもよりも執筆の忙殺されました。それでもまだ全てが終わっていません… さらにいえば、前述したように、平日は財務省に勤務し、土曜日は12月21日まで大学で4コマの講義をしていて、週休1日の状態が続いていて、勤務時間外に書かなければならない公務以外の原稿を、日曜日に集中して書かざるを得ない日々が9月末から続きました。1月の最後の講義と期末試験の採点が終われば、しばし週休2日の日々に戻るので、それが待ち遠しいです。こうして、私の2002年が暮れて行こうとしています。

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2003年1月2日

 私は、今年もアメリカ経済学会(American Economic Association)の年次大会に出席するべく、ワシントンDCに出発しました。アメリカ経済学会には、2002年の年次大会に初めて参加し、研究報告や討論者などの責務はなく、学会の雰囲気を楽しみました。2002年の年次大会については、このウェブサイトの「ラホーヤの浜辺から」で書きました。今年は、2年連続2度目の参加で、私がカリフォルニア大学サンディエゴ校に客員研究員として滞在中に星教授と書いた共著論文を報告することになっており、そのために赴きました。

 この渡航は、私は国家公務員の身分であるため、純然たる「公用」です。国家公務員が公用で海外出張するときには、一般のパスポートと違って、緑色の表紙の「公用旅券」が手渡されます。そして、アメリカに入国する際にはA2ビザが必要となります。これらの手続きは、前述のように一切をロジ(事務方)がしてくれました。2001年7月にカリフォルニア大学サンディエゴ校に客員研究員として渡航する際のビザ取得等の事務手続きは、全て一切を私がしたのとは大違いです(大学教員は普通そんなものです)。私は、早く確実にビザを取得したかったので、東京のアメリカ大使館まで面接を受けに私と妻子が皆赴いて取得したのでした。

 ロジは前年末までに万端に整い、私は、お屠蘇気分もそこそこに、年始早々2日の正午にはJAL6便ニューヨーク行で成田空港を発ちました。私は、JALを利用したので、ニューヨーク経由でワシントンDCに向かいましたが、日本からこの学会に参加する先生方の多くはANAのワシントンDC直行便を利用されたようです。何人の先生方から直行便で来た旨を聞いたので、後で振り返れば、この1月2日のANAの便に万一でもあれば、それこそ日本の経済学会の一大事になっていたと言っても過言ではないでしょう。

 さて、私といえば、ニューヨークのJFK空港に無事到着しました。その道中は、翌日に控えた研究報告の準備に専ら時間を費やし、映画など見ませんでした。JFK空港は、「ラホーヤの浜辺から」でも書いたように、ちょうど5ヶ月前の2002年8月に、1年間のサンディエゴ滞在後の帰国時にアメリカを発った空港です。アメリカを後にして以来初めて、そのちょうど5ヵ月後に同じところに戻ってきたので、特別な感慨がありました。JFK空港に無事到着するまではよかったのですが、乗り継ぎで予定していたニューヨークJFK空港2日13時35分発(現地時間)、ワシントンのロナルド・レーガン空港行のアメリカン航空4843便が、客が少なかったせいか間引きされて欠航となってしまいました。代わりに用意されたのが、同じニューヨークでもラ・ガーディア空港発のワシントン行の便でした。そのため、航空会社が用意したバスで、チェックインした荷物を持ってラ・ガーディア空港まで移動する羽目になりました。JFK空港発なら、成田空港でチェックインした荷物はそのまま通しでワシントンまで運んでもらえるのですが、ラ・ガーディア空港発の便は、もう1度ラ・ガーディア空港でチェックインし直さなければなりません。しかも、9・11テロ事件の後、アメリカの空港はどこもセキュリティーチェックが厳しいため、特に(アメリカにおける)外国人はチェックインする荷物を厳しく検査されます。そもそも、私の荷物は、成田空港で安全が確認されて1度も開けていないのに、航空会社の都合で乗り継ぎ便を変えられた揚げ句に、アメリカの空港で外国人が受ける特に厳しい手荷物検査を受けさせられる羽目になってしまいました。

 アメリカの航空事情から言えば、こういうことは、それほど珍しいことではありません。私は、「ラホーヤの浜辺から」でも書いたように、9・11テロ事件の直後の約1年間サンディエゴで過ごしましたから、いかにアメリカの航空事情が乗客にとって悪化していったかをリアルタイムで見てきました。アメリカ国内線といえども、チェックインのときには荷物の厳しい検査があり、空港の搭乗口に入る際には機内に持ち込む手荷物を含めセキュリティーチェックがあり、さらには飛行機に搭乗する直前には乗客の一部を選りすぐって行う身体検査を(セキュリティーチェックを1度受けているにもかかわらず)再度受けなければ、飛行機に乗れない状況です。これでは飛行機に乗るまでに相当な時間をとられ、うんざりしてしまいます。さらには、飛行機の便数自体も減らさざるを得なくなりました。そうしたこともあり、9・11テロ事件後は、飛行機の利用者が減り、アメリカの航空会社に大打撃を与えました。2002月8月にはUSエアウェイズが、12月にはユナイテッド航空が、連邦破産法第11条に基づく会社更生手続きを申請する事態に至りましたし、アメリカン航空もその寸前まで追い込まれました。そういう意味では、テロ事件前からではありますが、アメリカの航空業界はすさんでいます。アメリカでは、飛行機に乗る1つの魅力であった機内サービスは、ほとんどなくなってしまいました。

ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港
クリックすると写真を拡大できます  さて、話を元に戻しまして、ラ・ガーディア空港からの代替便は、結局16時前に出発し、ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港に無事到着しました。ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港は、同じワシントンDCにあるダレス国際空港よりも都心に近く、地下鉄でつながっていてとても便利ですね。私がワシントンDCを訪れるは2度目です。年始早々なので、クリスマスのためのデコレーションは、まだあちこちに残っていて、アメリカらしいクリスマスの雰囲気の名残を楽しみました。

 この日のディナーは、3日の朝8時から開かれるアメリカ経済学会でのJapanese Economyのセッションで研究報告や討論者をするメンバーが集まって、Red SageというアメリカのSouthwestern料理のレストランで一緒に頂きました。そこでは、次の日銀総裁は誰かという話題が一番盛り上がりました。ディナーには、経済学者の中で候補として挙げられている伊藤隆敏・東京大学教授もおられ、彼が次の日銀総裁にふさわしいと支持する声が聞かれました。このディナーには、3日のセッションの座長である林文夫・東京大学教授をはじめ、星・カリフォルニア大学サンディエゴ校教授、Kuttnerニューヨーク連銀副総裁補、Patrickコロンビア大学教授、Posen国際経済研究所(Institute for International Economics)上級研究員、Weinsteinコロンビア大学教授といった方々(肩書きは当時のもの)が出席されており、デフレを克服するためにはこれまで以上により積極的な金融政策を求める研究者が集まっていました。これまでの日銀の政策はきわめて不十分で、日銀総裁の交代を機に、金融政策によるデフレ克服が強く望まれるという主張が、このディナーでは支配しました。このディナーの出席者だけでなく、アメリカにおける日本経済の研究者の中では、デフレは悪くないなどといった日本でよく聞かれる主張はほとんど聞かれません。やはり、デフレは経済にとって害悪なのです。デフレを克服するための政策の費用と便益を勘案しても、デフレの害悪(を取り除く便益)の方が大きいと私は考えます。


2003年1月3日

 この日から、いよいよアメリカ経済学会の年次大会が始まりました。グランド・ハイアット・ワシントンが、アメリカ経済学会の年次大会のメイン会場です。その隣にあるワシントン・コンベンション・センターでも、一部のセッションが開かれました。この日の朝8時から、早速Japanese Economyのセッションが開かれました。アメリカの経済学者は、学会では必ず朝早くから研究報告を始めます。日本の経済学関係の学会では、早くても9時半ごろからしか始めません。その意味では、アメリカの経済学者の方が朝型だといえるでしょう。

 このセッションで、私は、星・カリフォルニア大学サンディエゴ校教授と書いた財政投融資に関する共著論文を報告しました。この報告論文は、2002年12月にNational Bureau of Economic Research Working Paper No.9385として公刊したものです。日本の財政投融資で、不健全な特殊法人や地方自治体のへの貸付で損失がいくら生じたか、あるいはその損失処理のために今後いくら国民が税負担しなければならないか、を定量的に分析したものです。我々の報告の討論者は、Patrickコロンビア大学教授でした。Patrick教授は、特殊法人や地方自治体に、これほど多くの超過債務があるとは予想を超えるもので、それを明らかにしたことはとても意義があると評価して下さいました。

 この日の夜は、国際経済研究所(Institute for International Economics; IIE)で開かれたレセプションに出席しました。Posen国際経済研究所上級研究員が、私を誘ってくれました。IIEは、デュポン・サークルからマサチューセッツ・アベニューを南東に下ったところにあります。レセプションでは、食事もそこそこに、Posen上級研究員やKuttnerニューヨーク連銀副総裁補らと、日本の財政金融政策について大いに語り合いました。

 Posen上級研究員らと私は、日本の金融政策については、さらなる量的緩和政策が必要で、インフレ・ターゲティングの導入が必要だとする点では意見が一致しているのですが、財政政策については少し異なっています。彼らは、ケインジアンとは異なる視点から、1990年代の日本の財政政策がそれなりに有効だったと見ていて、デフレから脱却するには、拡張的な金融政策とともに、積極的な財政政策も必要だと主張しています。その主張は、
 Kuttner, K.N. and A.S. Posen (2001) The great recession: Lessons for macroeconomic policy from Japan, Brookings Papers on Economic Activity 2, pp.93-160.

 Kuttner, K.N. and A.S. Posen (2002) Fiscal Policy Effectiveness in Japan, Journal of the Japanese and International Economies vol.16, pp.536-558.
で展開しています。ケインジアンとの違いは、ケインジアンは減税とともに公共投資を始めとする財政支出の拡大も景気対策として有効だとするのに対して、彼らは、財政支出の拡大はあまり評価しておらず、むしろ減税が有効だとしている点です。そうした財政金融政策を整合的にするには、日銀が発行した国債を貨幣化して(つまり、国債を市中で発行してすぐに日銀が買いオペする)、その国債を財源に減税をすればよいというものです。

 これに対し、私は、財政赤字をこれ以上増やすべきではないから、拡張的な財政政策はできるだけ避けて、その分金融政策をもっと拡張的にすべきだと考えています。確かに、日銀は、もっと国債の買いオペを増やすべきだとは思いますが、国債の新規発行額をこれ以上増やすべきではありません。国債の買いオペの増額は、デフレを止めるために限定すべきで、財政規律を弛緩させる(国債を節度なく発行できる)ことを惹起させてはならないと考えます。この辺りにも、日米の経済学者の違いがあるようです。

 2003年2月〜7月は、工事中です。

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2003年8月24日

 8月25日〜28日まで、チェコ共和国のプラハで開かれる国際財政学会(International Institute of Public Finance)第59回大会に出席するべく、東京を出発しました。私は、1997年に京都で年次大会が開催されたとき以来国際財政学会の会員で、年次大会は2000年にスペイン・セビリアで開催された第57回大会以来3年ぶり3度目の出席となります。国際財政学会の年次大会は毎年夏に開かれており、どちらかというと観光地として魅力のある都市で開かれます。2001年の夏は、サンディエゴに滞在するセットアップに忙しかったため、2002年の夏は、前述のように、財務総合政策研究所での勤務のセットアップに忙しかったために参加できませんでした。

 私がプラハを訪れるのは初めてです。プラハには、日本からの直行便はないので、旅行会社の勧めでパリ経由で行きました。プラハに着いたのは20時でした。空港に着いたときはまだ明るかったのですが、ホテルに着くころにはようやく日が暮れました。プラハの空港には、料金をぼるタクシーがたくさんいると聞いていたので、固定料金・前払いのタクシーでホテルへ向かいました。旅行会社の方の話によると、地元の人でもだまされることがあるので悪徳タクシーには警戒しているということでした。ホテルが街の中心へ歩いていける距離なので、この日の夜に少しだけ観光をしました。夜には名所がライトアップカレル橋のレリーフ
クリックすると写真を拡大できます カレル橋の前の私
クリックすると写真を拡大できます されているので、観光客が結構いて賑やかでした。街の中心は中世からの建物がそのまま残され、夜なので全体の雰囲気はよくわかりませんでしたが、美しい街並みを予感させます。

 プラハは、ちょうどこの2日前に小泉首相が訪問されたばかりでした。小泉首相のプラハ訪問のニュースでは、カレル橋のレリーフの前で、この9月に行われる自民党総裁選と重ね合わせて「私も落とされそうになっている」とジョークを言われた場面が、日本で報じられました。そこで、私も是非そのレリーフを見てみたいと思い、早速行って見ました。そして、そのレリーフの前で写真を撮りました。右側のレリーフの光っている部分がそれで、そこを触ると幸せになるという噂から皆が触っているので色が変わっているわけです。ホテルからカレル橋までの道中には、土産物屋がたくさんあって、夜遅くまで開店していました。


2003年8月25日

大会会場の玄関での私  この日から国際財政学会第59回大会が始まりました。まず、Stiglitzコロンビア大学教授が開幕を飾る講演をしました。Stiglitz教授は、"Development Oriented Tax Sysyem"と題して、発展途上国でどのような税制を導入すればよいかについて講演をしました。主な主張は、税制は発展を促すものでなければならないことと、税制は汚職を阻止するものでなければならないことが重要だ、ということです。その点で、付加価値税は、IMFが世界的に導入を勧めているのですが、Stiglitz教授は付加価値税は途上国にとってよくないと主張しました。その理由は、途上国では現金取引が多く徴税当局の捕捉体制が弱いため、課税ベースとなる取引がきちんと把握できていない、同じ財でもformal部門で流通すれば付加価値税を課税されるがinformal部門で流通すれば課税できないため、付加価値税が結果的にinformal部門と比べてformal部門の発展を阻害することになり、経済発展に資さないし、(付加価値税は先進国経済ならば本来効率的な税なのに)こうした途上国経済では資源配分にゆがみを与える非効率的な税に成り下がっている、また徴税当局に汚職の温床をもたらす、税率が一律だから累進的でないということです。そこで、Stiglitz教授が発展途上国に勧められる税として挙げたのは、窓税(Window Tax;窓の数に応じて課す税)、輸入自動車への課税、住宅面積への比例税でした。やはりというべきか、Stiglitz教授はここでも、IMFに対して批判的な主張を展開しました。

 この講演は私としては面白い点を指摘したものだとは思いましたが、案の定、講演後の質疑応答で反論が相次ぎました。この場所が付加価値税が円滑に機能できているヨーロッパであることを改めて感じさせられるものでした。反論には、付加価値税は輸入にも課税しているのだから、わざわざ別途輸入自動車に特別に課税しなくても付加価値税を課税することで目的は達せられるではないか。付加価値税でなく、個別物品税では、税率や税目の決定にかえって政治の介入を許し、それがむしろ汚職の温床になるのではないか、など鋭いものでした。Stiglitz教授は、こうした反論に少したじろいだ様子でした。

 この日の夜は、チェコ国立銀行(Czeck National Bank)でレセプションが行われました。立派な階段に導かれて、壮麗な内装のレセプションホールにたどり着きました。レセプションはそこで開かれました。レセプションの冒頭、チェコ国立銀行総裁が自らご挨拶され、地元のカルテットの生演奏が披露された後、乾杯となりました。建物もさることながら、ふるまわれた料理やワインもすばらしく、宴はとても盛り上がりました。

 さすがは中央銀行ですね。私の経験では、どこの国の中央銀行でも、壮麗で格式ある建物で手厚く料理がもてなされます。これは、先進国、発展途上国を問いません。各国の財務省とは大きな違いです。中央銀行の建物は、どういうわけか、通貨の番人にふさわしく立派な建物です。これに対して、財務省の建物は、多くの国で、無味乾燥な普通の建物です。日本でも、日本銀行(本館)と財務省の建物を見比べれば、その差は明らかです。他方、料理についていえば、私はいくつかの国の中央銀行が主催する学会やレセプションに出席したことがあるのですが、(財務省のものよりも)すばらしい料理がふるまわれます。中央銀行が主催する学会やレセプションに出席できる機会は、財政学者よりも金融論の学者の方が明らかに多いので、財政学者から見ればその意味ではうらやましいですね。中央銀行は(財務省と比べて)、同じ公的機関でありながら、なぜこうした壮麗で格式ある建物で立派な料理をふるまえるのでしょうか。これは、私にとっては世界第8の不思議ともいえるものです。


2003年8月26日

コノピシュチェ城
クリックすると写真を拡大できます  この日は、午前中で学会の研究発表のセッションを終え、午後からは学会の公式行事としてコノピシュチェ城に出かけることとなりました。コノピシュチェ城は、プラハから南西にバスで1時間ほど行ったところにあり、学会会場からバスで各国の参加者とともに出かけました。コノピシュチェ城のかつての所有者は、サラエボで暗殺されたオーストリア皇太子のフランツ・フェルディナンドでした。1887年から1914年に暗殺されるまでこの城の所有者でした。

 小高い丘の上に建つ城の廊下や部屋には、動物の剥製や武具がたくさん飾られていました。フェルディナンド皇太子が狩で射止めた鳥や鹿などの剥製や角、それから皇太子のコレクションだった甲冑、サーベルや鉄砲など大小の武具が次々と出てきました。さらに、フェルディナンド皇太子は、新しい物好きだったようで、当時としては最新鋭のエレベーターがこの城の中に設けられていました。そのエレベーターにも、金や宝石などが装飾されていました。

 城の見学が終わると、ディナーはその城の近くのレストランで振る舞われ、食事の前に民族舞踊を拝見しました。


2003年8月28日

 国際財政学会(International Institute of Public Finance)第59回大会は、この日で閉幕しました。第59回大会の様子を写した写真が残されています。

プラハ城
クリックすると写真を拡大できます  プラハは、赤い屋根が印象的な、とても美しい街でした。宿泊したホテルが街の中心部にあったので、散歩がてら街中を歩きました。世界遺産にもなっていることから、建物の高さ制限や景観の制限もあるように見受けられました。古くからの街並みも、中世的な狭く入り組んだ路地も、きちんと残されていて、多くの観光客が来ていました。観光客はドイツ語らしき言葉をしゃべっている人が多いようです。その観光客目当ての土産物屋が軒を連ねている通りがあって、いかにも日本の観光地のようにおあつらえ向きの土産物を売っていて、海外では珍しい感じでした。幸いにして、天候にも恵まれ、プラハの象徴であるプラハ城がきれいに見えました。

 ただ、プラハは、チェコ共和国の首都なのですが、古都、観光都市という雰囲気はあるものの、官庁街あるいはビジネスが盛んな街という雰囲気があまり感じられませんでした。チェコ共和国はEUへの加盟を目指している(当時)割には、首都としての能動的な活気(つまり、観光客相手の受動的な活気ではなく)が足らないような気がしました。

プラハの地下鉄
クリックすると写真を拡大できます  プラハには路面電車と地下鉄があって、市内を移動するのに便利でした。地下鉄に乗る際、駅の改札口からホームに向かう途中、エスカレーターのスピードの速さには驚きました。エスカレーターに飛び乗るというほどではありませんが、私がこれまでに乗ったエスカレーターの中では最も速いものでした。

 最後に、記念にボヘミアグラスを、専門のお店で買いました。ボヘミアグラスはピンからキリまでありましたが、ちょうど手ごろな値段で素敵なグラスのセットがあったので、それを買いました。どうやら、日本で買うよりも6割ぐらいの値段のようです。そして、私は、プラハ国際空港から日本への帰国の途につきました。

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 2003年9月〜11月は、工事中です。


2003年12月26日

 とうとう2003年も御用納めの日が訪れました。2003年は実に忙しい年でした。この「経済学の論理・霞が関の論理」のページでも書いたように、本業の経済学の研究もさることながら、審議会などで議論に参加したり、10回も海外出張をしたりしました。9つの国と地域(アメリカ<2回>、台湾、中国<3回>、インドネシア、イギリス<2回>、フランス、ドイツ、チェコ、タイ)を訪れました。お蔭(!?)でこのページも、タイトルに反してまるで旅行記のようになってしまいそうです。

 この日の勤務時間終了後、研究所の職員が集まって、年末恒例の乾杯が行われました。2002年12月は御用納め前日に行われましたが、2003年は都合で御用納めの日になりました。

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2004年1月2日

 私は、この年も年始早々に、アメリカ経済学会(American Economic Association)の年次大会に出席するべく、サンディエゴに出張しました。今年は、私の思い出の地、サンディエゴで開催されるとあって、万難を排してでも行きたいと思っていました。サンディエゴは、「ラホーヤの浜辺から」でも書いたように、カリフォルニア大学サンディエゴ校に客員研究員として滞在していたので、私にとっては第2の故郷のようなところです。日本からサンディエゴには直行便がありません。そのため、ロサンゼルスなどで乗り継ぎをしなければなりません。乗り継ぎも時間に余裕を持たせるため、アメリカに入国してからサンディエゴに着くまでに結構時間がかかります。そこで、私は南カリフォルニアの土地勘があるので、ロサンゼルスからレンタカーを借りてサンディエゴに行くことにしました。

 ここで余談ですが、全米第7位の人口を誇るサンディエゴへ、日本からの直行便がない主な理由は、サンディエゴ国際空港は滑走路が1本しかなく、しかもジャンボ機を飛ばせないほど短いことが挙げられます(日本の大阪国際空港以下の能力…)。そのため、日本からジャンボ機で直行便を飛ばせませんし、サンディエゴから他のアメリカの都市への乗り継ぎ便を多く用意できないので、直行便を飛ばすメリットが小さくなっているといえます。日本からの直行便がないせいか、サンディエゴは、アメリカでは大都市の1つとみなされているにもかかわらず、日本では知らない人が多いように思います。

 サンディエゴは、2003年に大きな山火事に見舞われました。私もそのときは心配しましたが、程なく鎮火しました。日本では、サンディエゴがマイナーなせいか、この山火事でサンディエゴが全焼したかのように勘違いした人もいましたが、実際にはサンディエゴの山間部(といっても雨がそれほど降らないので木がまばらにしか生えていませんが)で燃えたので、ダウンタウンが燃えたわけではありません。でも、山間部に隣接した住宅街は燃えたそうですし、燃えた面積が大きかったために、その煙や灰がダウンタウンや沿岸部の住宅街にも達したそうです。そのせいで、天気予報で今日の天気が「煙」という日があったそうです。

 サンディエゴがらみの話でもう1つ。今回の学会参加のための出張中に、サンディエゴ滞在時代の知人から聞いた話ですが、最近のサンディエゴ経済は景気がよく、アメリカ経済全体とは様相を異にしているそうです。バイオテクノロジーや製薬業、そして(テロ事件以降の安全保障上の要請から)海空軍(もともとサンディエゴは軍港としても有名)が、サンディエゴの好況の牽引役となっているようです。そのため、人口が依然増加し続けているそうで、私がいたときよりも交通渋滞がさらにひどくなっていました。レンタカーで移動しているときにも、短期間の出張でありながら数度渋滞に巻き込まれました。サンディエゴのキーポイントや名所は、「ラホーヤの浜辺から」付属・サンディエゴの地図をご覧下さい。

 さて、無事ロサンゼルス国際空港に到着しましたが、入国の際、入国管理官に私は顔写真と指紋をとられました。アメリカは、テロの防止のために、入国管理を強化していて、ビザを保持した外国人は、入国に際して顔写真と指紋をとることを要求しています。私は、2003年1月2日のところで前述のように、アメリカに出張するときにはA2ビザの公用旅券で入国します。そのため、(たった6日間の滞在にもかかわらず、私のA2ビザは2007年まで有効なためか)顔写真と指紋をとられました。

 以下、工事中です。

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