通信教育関係

このページについて

新しい開発の見方

2004年2月6日:ラジオ短波での放送
2 | 3 | 4 |

第1日(2004.2.6) 経済中心の豊かさ概念

はじめに

こんにちは。大平です。

今日から4回にわたって、開発経済学、あるいはより広い開発学の分野で、開発についての考え方が、最近になって大きく変わってきていることについて話します。よろしくお願いします。

開発に対する見方の変化を一言でまとめると、かつての経済中心の見方が捨て去られ、もっと広い視点で見るようになったことです。

地域、あるいは集団の「豊かさ」を追求するときに、いわゆる経済的なことだけを見ていればよいわけではありません。そんなことはあたりまえです。それにもかかわらず、なぜ、かつては経済中心の開発という考え方があったのでしょう。第1回の本日はその点について考えることにします。「経済中心の豊かさ概念」というテーマです。また、個人の豊かさを考えることと、集団の豊かさを考えることとは、同じようにはいかないことについて、不可能性定理を紹介する形で話をします。

第2回は「代わりの見方」というテーマで話しをします。英語で言うと、alternative developmentです。経済要因以外にどのようなものを考えることで、真の豊かさを追求できると考えるようになったのかを話します。

第3回は、「人間開発指数」についてまとめます。第2回で扱ったことを抽象的な議論に終わらせないために、そこで考えた豊かさを数値化しようという工夫についてのお話です。

経済以外の豊かさを考えると言っても、いろいろなことを考える必要があります。第4回は人間開発指数には盛り込まれなかった要因のうち、きわめて重要と思われることとして「参加・自立」について取り上げることにします。

全体を通して、開発の目的と手段の2つの面で経済中心のモノの見方から、経済以外の要因を見るようになったことを整理する予定です。

個人の豊かさと集団の豊かさ:不可能性定理

さて、早速、本題に入りましょう。

まず、今日の前半では個人の豊かさと集団の豊かさとのちがいを確認しておきます。

おそらく、多くの人々は、まず最初に追求すべきは個人の豊かさであり、全員が豊かだと実感できるような社会は豊か、と考えるのではないでしょうか。確かに、全員が豊かだと感じるような社会があれば、その社会は豊かであるにちがいありません。しかし、全員が豊かだと感じることができるような社会なんてあるのでしょうか。また、それが仮にあるとしても、それ以上の豊かさを追求する必要はないのでしょうか。よい状態が実現できていたとしても、それよりもっとよい状態について考えることもできるのではないでしょうか。

社会全体の豊かさは、個人の豊かさが集まったものですから、何らかの関係はあるはずです。しかし、個人の豊かさの単純な合計が社会全体の豊かさというわけでもないでしょうし、特定の個人を豊かにする政策が、社会全体を豊かさにするというわけでもないでしょう。すべての個人にとって共通に豊かさを向上させるような手段があるかどうかもわかりません。個人の豊かさの問題と、社会全体の豊かさの問題とは別の問題として考える必要があります。

個人の豊かさは人それぞれで選べばよいものです。しかし、社会の状態がどうあるべきかについては何か確定的なことが言えるのでしょうか。みなが納得するような理想的な社会状態というものを考えることができるのでしょうか。

残念なことに、この問いに対する答えは noです。全員が納得するような社会的意思決定ルールを作ることはできないことを、アローという経済学者が不可能性定理という形で示しています。より正確には、次に話す3つの前提の下では、全員が納得する意思決定はできないという主張です。まず第1に、社会的な意思決定をするときに、全員の意思決定権を対等・平等とみなすという意味での民主主義です。誰か特定の人やグループの言うことを重く評価するようなことはなく、誰であろうと、平等に集団の意思決定に参加するという前提です。

第2の前提は、価値観の多様性です。「社会の豊かさ」と一口に言っても、人によって考えることはちがいます。自分ではあたりまえと思っていることを他人に話したとき、思わぬ反論がかえってくることがあります。ましてや世界中の国々の垣根が低くなり、相互交流がすすむグローバリゼーションの時代には、一昔前には想像できなかったほと多様な価値観の調整をしなければいけなくなっています。開発をどのようにすすめるか、社会全体の豊かさをどのように考えるか、という問題を考えるときにも、驚くほど人によって考え方がちがいます。

第3の前提は、一人一人の豊かさというのは数字できちんと測定できるようなものではない、ということです。たとえば、私の豊かさは20、あなたの豊かさは40なので、あなたの方が私よりも2倍豊かだ、というような豊かさの測定ができないことは、誰もが納得するでしょう。ある状態と別の状態を比較してどちらの方が豊かだと思うか、個人ごとの判断ができるだけで、その判断を別の個人と共有することはできないでしょう。個人ごとに豊かさのランキングをつけることができるだけ、すなわち順序だけがつけられるだけです。

以上の3つの前提のうち、最初の2つ=意思決定権が平等であること、価値観の多様性をそのまま認めること、は現代の社会では何よりも重視しなければいけないこととして、多くの人が受け入れるでしょう。また、豊かさの把握は個人ごとにしかできない、という考え方も納得するのではないでしょうか。

ところが、この3つを認めてしまうと、全員が納得するような社会的な意思決定はできないことが不可能性定理で示されています。個人ごとにそれなりに豊かさについて考えることはできますが、それらを合計した社会全体の豊かさ概念について全員が納得するようなものをつくることができないんです。

経済学者が発明した理論の中でもっとも世界に影響をあたえたものは何でしょう。 経済学の創始者と言われているアダム・スミスが唱えた自由主義の思想をはじめ、 いくつかのものを候補として考えることができます。しかし、私は社会全体の豊か さとは何かという問いを考えるいま、社会的選択の理論と呼ばれている分野で作ら れた不可能性定理というものを最大級の発明と言いたいです。政治学の分野は言うまでもなく、社会科学の分野一般で不可能性定理についての議論がおこなわれ、全体と個との関係を検討するようになっています。

ここでは、不可能性定理を紹介することで、個人の豊かさと集団・社会の豊かさとは別個のものとして考えなければいけないことを指摘するにとどめます。わたしたちにさしあたりできるのは、全員が納得することはないにしても、できるだけ多くが受け入れるような豊かさ概念を見つけることでしかありません。

それでは、そのような豊かさ概念として、開発経済学ではどのようなことを考えてきたのでしょうか。

経済中心の見方

最初にもお話したように、伝統的に開発経済学の分野ではGDPに代表される経済的な豊かさを追求してきました。また、経済的な豊かさを実現するための手段として、経済インフラの整備を考えてきました。

ユニセフやWHOをはじめとした国際機関が、開発における健康・福祉分野で昔から活躍していました。民間機関や政府開発援助でも、いわゆる経済的なことだけではなく、健康や福祉、社会、文化交流などの分野に目を向けていたことも確かです。伝統的な開発が経済だけに極端に偏っていたと判断するのはまちがいです。

しかし、おおよその傾向としては、80年代に入るくらいまで、地域開発、途上国の開発の中心的役割を果たすのは経済的なことだという考えが主流だったと言ってまちがいありません。開発の目標は経済成長であり、その実現のための手段は経済インフラの整備、およびマクロ経済政策という考えが圧倒的に支配的でした。

政策目標にはいくつものがあります。その中で経済成長が優先度の高いものになっていたことは非常に有名です。第二次大戦後の荒廃状況からの再出発だったこと、占領者であるアメリカの経済的豊かさが圧倒的だったことなどがあり、第二次大戦後の日本社会が目標にした最優先のことは、アメリカに追いつけ追い越せ、ということでした。そして、そのようなスローガンを叫ぶとき、アメリカと言う言葉には、圧倒的な物量面での豊かさがこめられていました。

通称・世界銀行と呼ばれる国際機関があります。国際復興開発銀行という機関が中心になったグループで、世界各国の経済・社会開発をリードしています。この世界銀行の紹介パンフレットを読むと、世界銀行の存在意義としてまずまっさきに紹介されるのが、日本の新幹線、黒部ダムへの融資の事例であることがわかります。戦後復興をはじめたばかりの日本経済にとっては、いくたびかの好景気はあったものの、新幹線や黒部ダムのような大きなインフラ設備を建設する経済的余裕はありませんでした。そこで、世界銀行からの融資を受け、これらの大規模プロジェクトを実行したのでした。新幹線建設によって東京と大阪という二大都市圏間の人の移動が容易になりました。黒部ダムの建設によって、電力供給が飛躍的にのび、高度成長を支えるエネルギー源になりました。結果的に日本経済は躍進し、世界銀行から受けた融資を予定通り返済しました。世界銀行融資をつかった大規模プロジェクトが、日本経済の成長に大きく貢献したこと、融資をきちんと返済したことなどから、世界銀行はいまでも開発の模範ケースとして、高度成長期の日本、とりわけ新幹線、黒部ダムの建設をもちだすのです。

このような象徴的な事例に示される通り、一国の豊かさのためには、経済インフラを整備することがあたりまえのように思われていました。

このような考えは、資本蓄積をすることで、経済成長を拡大させるという経済理論で表現されました。資本蓄積の内容は、いわゆるインフラ整備と、それを利用した企業の設備投資です。物的な蓄積をすることで、生産量を拡大し、生産量を拡大することで、さらなる生産量の増大を計画するという考えです。経済成長率を可能な限り高くすることが政策目標として設定され、その目標を達成する手段として経済インフラ、設備投資を刺激する、という理論モデルが盛んに議論の対象になりました。

経済成長率とは、GDPの増加率のことです。豊かさの拡大=GDPの拡大でした。GDPとは、大雑把に言えば、どれだけモノ・サービスを生産したかという大きさです。モノ・サービスを多く生産するようになることが、集団の目的に設定されていたのでした。

以上のように、(1)豊かになるということ=経済的な成長であり、そのためには(2) 経済的なインフラを整備するという考え方が、日本の高度成長期、世界の途上国の経済開発の時代を支える経済思想でした。

この経済思想を支える、より根本的な考え方として、2つのことを紹介します。
  1. まず経済的な豊かさを追求しなければ他の面での豊かさを追求することがで きない。
  2. 経済的に豊かになれば他の面での豊かさも自動的に実現するにちがいない。
という2つの考え方です。

まず経済的な豊かさを追求するべきという考えは、 といった考えに影響されていたと思われます。

このような考えから発展して、経済的に豊かになれば、貧困問題その他の社会問題も解決するという考えができました。所得分配にゆがみがあるために貧困問題がおきていたとしても、まず社会全体が経済的に豊かになれば、最貧困層=もっとも貧困な人々の経済生活も改善することになる、という考え方をトリックル・ダウン仮説と言います。全体の豊かさが一番下まで滴り落ちるということです。だから、貧困問題をはじめとした社会問題には最初は目を瞑り、全体の経済的豊かさを追求するべきだと考えたのでした。さらに、このような考えは、経済的な豊かさを実現できれば、自然に他の面での豊かさも実現するはずだという考えになりました。経済的な豊かさが先導役になれば、他の面に恩恵が滴り落ちるという考えです。

以上のような経済重視の考え方は、すべての人ではないにしても、多くの人々に受け入れられ、実際に多くの国や地域で経済開発による経済的豊かさの追求がされてきました。価値観が多様な世の中にあっても、経済的なことを最初に追求する考えは多くの人々に受け入れられたということです。

ところが、 が実際の歴史の中で多数出てきたために、目的面でも手段面でも経済的な要因を重視する姿勢に反省が加えられるようになってきました。

経済インフラの整備が進むと、インフラ設備が過剰に作られ、不必要なインフラ 整備に着手することがあります。「そんな道路を作る意味があるの? ハコモノ ばかり作っても誰も利用していないじゃない。」といった批判が日本でもよくさ れます。ダム建設に対する疑問も大きな話題になります。

もちろん、いまでもインフラ整備が不可欠なケースはいくらでもあるので、イン フラ整備に対する批判をあまりにも単純な形でおこなうのは適切ではありませ ん。しかし、ムダなインフラ整備をしているかどうかをきちんと検証することも 大切です。公共事業とか開発プロジェクトの例に限らず、制度というものは、一 度作られると、制度の目的がだんだんと忘れられ、実施すること自体が目的化さ れてしまうものです。ムダなだけでなく、有害なプロジェクトを実施してしまう こともありえます。

とくに途上国開発の例では、プロジェクトを実施することによる利益が一部の 人々だけに独占され、多くの人々にはコストだけがしわ寄せされることが問題に なっています。たとえば、ダム建設をすることが都市住民の生活を改善する一方 で、ダムの地元に住む人々の生活環境を破壊する、というような問題です。経済 的豊かさを考えるときには、誰の豊かさを話題にするのかについても明確にしな ければならないわけです。

経済開発をしても経済的豊かさにつながらない事例はいくらでも指摘することが できます。きりがないので、事例を探す作業はみなさんにおまかせします。

「経済的豊かさが実現しても、他の面での豊かさにつながらない事例」、こちら については事例を指摘するというよりも、みなさん自身に問い掛けたいと思いま す。いまは不景気の時代なので、「経済的に豊か」という言い方に抵抗を感じる 人々も多いかもしれません。しかし、世界中の国々を見渡したとき、日本社会の 経済的豊かさはあまりにも歴然としています。餓死(うえじに)が日常化してい る地域が世の中にあります。そのような地域と比較して日本社会は経済的にきわ めて豊かさです。

でも、経済的豊かさが他の面での豊かさに直結していると断言できる人はどれだ けいるでしょう。また、自分個人のことを離れて、日本社会全体が経済面だけで なく他の面でも豊かになっていると言い切ることができる人はどれだけいるで しょう。 この2つから、経済中心の見方に反省が加えられるようになってきていることが今 日の結論です。

次回は、経済以外の要因としてどのようなことを重視するようになってきたのかについて、アマルティア・センの思想の一端を紹介しながら整理することにします。

注意

今日の話しの最後にいくつかの注意点を述べておきます。

まず、GDPという言葉です。古い文献を読んだ人は、GDPではなく、GNPという言葉 になじみがあると思います。どちらも似たような概念です。国際間の人・モノの移 動がそれほどないならば2つのちがいはあまりないのですが、現在のように国際間 移動が激しい時代では、この2つにはちがいが生まれてきます。一国の経済的豊か さを示す指標としてはGDP、すなわち国内総生産の方が適切なので、最近はGDPを見 るようになっています。

GDPとはどれだけモノ・サービスを生産したかを表すものだと言いました。生産量が多くなることを目的にすることは、物質主義的なものを感じさせます。モノの量が多くなること自体を目標にするのだとしたら、その通りです。実際、高度成長を遂げた多くの国々でモノの量を尊ぶ思想に対する疑問が提出されています。わが国でも清貧の思想という言葉が流行したことがあります。また、公害問題が深刻だった時期を中心に、物質的な豊かさを追求する姿勢に多くの疑問が投げかけられました。

しかし、ここで注意すべきは、GDPの拡大を生産されたモノ・サービスの量の側面からだけ見ることの不十分さです。生産をするためには、それだけの労働の投入も必要です。GDPには生産された結果を見るための数字という側面と同時に、生産するための労働量を見るための数字という側面もあります。あるいは、どれだけ新たに価値を作り出したかを表すものでもあります。労働は苦痛であるばかりでなく、社会生活をする上で喜びにもなるクリエイティブな行為なんだ、という考えに立てば、GDPが拡大することは、それだけ多くの個人が労働を通して社会生活に参加したことを意味する積極的な意味合いももつことを意味します。労働を尊ぶ姿勢からもGDPの拡大は要請されるわけです。

GDPに代表される経済的な豊かさだけを追求してきたというまとめ方をすると、人間のもっとも卑しい部分の追及だけをしてきたことだけが問題になっているように思えてしまいます。そのような見方は、経済中心の考え方を不当に扱っていると私は思います。モノ・サービスを生産するために労働を投下すること、それによって新たな価値を創造するクリエイティブな行為がされていることを社会の活力の表れと見ることも大事です。経済だけを考える単純さを否定することは大切ですが、経済的なものの背後にある人間の行為の神聖な部分についてもきちんと配慮する必要があるでしょう。経済重視=物量を信仰するというわけではありません。

しばしば経済的豊かさと対比して「精神的豊かさ」ということが主張されます。この2つの対比はあまり意味がない、あるいはGDPの意味を矮小化させた議論だということを理解していただけたかと思います。私たちに必要なのは、いわゆる経済中心の開発方式を否定することではなく、それを理解する私たちの視点(ものの見方)の方なのかもしれません。

このようなことにも注意しながら、次回以降の話を聞いてください。

2 | 3 | 4 |