教授
大垣 昌夫
行動経済学、マクロ経済学、国際経済学
慶應義塾大学での行動経済学の教育と研究の機会に感謝
経済学部での教員生活の思い出について
シカゴ大学大学院で学ぶために渡米して以来25年間のアメリカでの生活を終えて2009年9月に慶應義塾大学経済学部の教授として着任しました。2010年の4月から行動経済学のゼミと「国際経済と行動経済学」という講義を立ち上げました。当時の日本では2002年に現代の行動経済学の理論の基礎を構築する研究業績をあげたダニエル・カーネマンがノーベル賞を受賞して行動経済学が注目を集め、2007年に行動経済学会が設立されたところでした。しかし行動経済学の授業や演習はほとんどの日本の大学でまだ提供されていない段階でした。日本語でも英語でも、興味深い一般書が多く発刊されていましたが、まだ講義に適した満足できる教科書は存在しない段階でした。それで慶應義塾大学で教えながら、自分で日本語と英語の教科書を書きました。これらの教科書の神経経済学の部分は神経科学の専門知識が必要なので専門家の田中沙織博士に共著者として書いていただきました。今では日本でも多くの大学で行動経済学の授業が提供されており、教科書も複数の良書が発刊されていて、隔世の感がします。
私はシカゴ大学で伝統的経済学と呼ばれる効用を最大化する経済人(ホモ・エコノミカス)を前提とする経済学を学び、2003年までは伝統的経済学の研究をしていました。経済人を前提とせずに人間(ホモ・サピエンス)を対象として希少な資源がどのように分配されているか、また、されるべきか、を探究する行動経済学の研究を始めた契機は2001年の米国同時多発テロでした。オハイオ州に家族4人で住んでいた私は2000年に家族でニューヨーク観光をして世界貿易センターの隣のマリオット・ホテルに泊まりました。テロでマリオット・ホテルが崩壊した映像を見たときに「テロリストは私の家族の命を奪おうとしている」という思いから激しい憎しみを感じました。しかし2年間くらいして、ふと、「テロリストもアメリカの政策で家族や友人たちの命が奪われるので、アメリカ人やアメリカで税金を払っている人たちが憎い」と感じているのだろう、と気づきました。それでもテロリストはやはり邪悪だと思ったのですが、そうすると憎しみの連鎖の中にいる自分も邪悪である、ということになり恥ずかしく感じました。敵を愛するようになるしか道はない、と思いました。すると急に小学校5年生くらいのときに西洋文化に興味を持って友人から借りて読んだ新約聖書の「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの言葉が心に響いてきました。私はそれまで「キリスト教徒しか天国に行けない」という考えが嫌いで、キリスト教という宗教を嫌っていたのですが、聖書を真剣に読んでみようと思い、生まれて初めて聖書を買って読み始めました。
私は敵をも愛する無条件の愛で誰でも大切にしたいので聖書を読み始めたのですが、もしもテロリストが家に来て自分の家族の命を奪おうとしたら、と想像してみると、どうしても敵を愛せない、と感じました。2003年4月18日の朝に、自分の力だけではどうしても無条件の愛で愛するようにはならないが、神には無条件の愛で敵をも愛する力を持っておられるし、私をだんだん無条件の愛で愛する者に成長させてくださる力を持っておられると信じました。また、イエス・キリストが私の無条件の愛からのずれのために十字架にかかって死んでくださったと信じました。
このような信仰を持つようになって、一時的に経済学を教えるのも研究するのも無条件の愛と矛盾するように感じ、牧師に「経済学者をやめたくなった」と相談しました。牧師は「あなたが信仰を持ったときに経済行動が変わったはずだから、そのことを考えると信仰を持つ経済学者として生きていくためのヒントがあるはずだ」と助言をくれました。そこで考えてみると、以前よりも寄付をするのが嫌ではなくなったことに気付きました。以前の世界観では、病気や事故が無意味な偶然で起こると思っていたので、自分の子供たちが将来に病気や事故にあう場合に備えて寄付よりも貯金がしたい、と思っていました。しかし新しい世界観では、全知全能の神が無条件の愛で、病気や事故も人格の成長というような意味がある場合にだけ起こるので、恐れることはない、と感じるようになってきていました。すると寄付行動をすることがそれほど嫌ではなくなりました。このことを、宗教の違いが経済行動に影響したのではなく、世界観の変化が経済行動に影響した、と捉えました。世界観の経済行動への影響は経済人を前提とする伝統的経済学では研究されてこなかったが、人間にとって重要な行動経済学の研究テーマであると考えました。
そこで人間が持つさまざまな世界観の経済行動への影響を中心に行動経済学の研究をするようになっていきました。2010年からの慶應義塾大学でのゼミでは、3年生は「世界観の経済行動への影響」の研究をテーマにグループ研究を、4年生は世界観に関係しなくても良いが行動経済学の卒業論文研究をすることにしました。私の研究はゼミ生のさまざまな研究に大きく影響を受けて、「経済学者が使う倫理観(世界観の一部)の違いによって、どのように資源配分がされるべきか、という規範経済学の結果がどのように変わるか」という規範経済学の研究を開始しました。またゼミでの倫理観の学習のために読むようになったマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』という本などから、規範倫理学に3大アプローチがあることを学びました。経済学者が通常用いてきた厚生主義という倫理アプローチは、3大アプローチのひとつの帰結主義という、効用のような帰結のみに注目するアプローチに属しています。3大アプローチには、他に倫理義務を重視する義務論と、徳や能力を獲得していって社会や共同体知に貢献することを重視する徳倫理というアプローチがあることを学びました。これらのアプローチを行動経済学のモデル中で統合する研究から、利他性などの徳を学習して成長し、あまりに効用が下がるような無理をしてバランスを崩さないようにしながら、無条件の愛で誰でも大切にするという義務の理想に向かって成長していく「無条件の愛の学習」という倫理の原理を提唱する研究をしました。
無条件の愛の学習は、小さい共同体内での利他性の徳の獲得から、だんだん大きな共同体での利他性の徳の獲得、という学習段階が通常はあることから、共同体や、共同体を築いて発展させるサーバント・リーダーシップの研究をするようになりました。この研究が発展して、2019年頃から市場メカニズムや、公共セクターが主として使う権力メカニズムを補完する共同体メカニズムの研究に力を入れています。日本や多くの国々で、高齢化が進み、認知能力が衰えて市場メカニズムを一人では使えない人々が増えていくこと、少子化のための政府財政危機のために、このような問題を公共セクターのみに頼って解決することはできないこと、さらに地震、津波、感染症、環境問題などによる危機の時代なので、共同体メカニズムを活用していくことの必要性が今後増していくと考えます。
共同体メカニズムを市場メカニズムと権力メカニズムと混合してどのように活用していくべきか、を研究するための鍵は社会関係資本としての信頼をどのように増していくことができるか、ということにあるのではないか、と考えています。このような研究を進めていくには個人追跡で信頼と他のさまざまな経済変数を収集するパネルデータが必要です。慶應義塾大学経済学部附属経済研究所のパネルデータ設計・解析センターでは日本家計パネル調査でアンケートによるパネルデータを収集してきました。同センターには2022年度から社会関係資本部門を創設して私を部門リーダーとして任用していただき、オンライン実験とアンケートによる信頼や他の経済変数の個人追跡データを収集して研究を進めることができるようになりました。
このように慶應義塾大学で行動経済学を教え、研究させていただいたことによって、私の研究が大いに影響を受けて発展してきました。心から感謝します。
プロフィール
1984年 |
大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了 |
1988年 |
シカゴ大学経済学部博士課程修了 (Ph.D.) |
1988‐94年 |
ロチェスター大学経済学部助教授 |
2015‐17年 |
行動経済学会会長 |
2019年‐現在 |
慶應義塾大学経済研究所 共同体メカニズム研究センター センター長 |
2021年‐22年 |
日本経済学会会長 |
2023年‐現在 |
日本学術会議経済学委員会委員長 |